──展示室はご自宅の建物を利用されているそうですが、先生は、ずっとこちらにお住まいだったのですか?
そうですね。昔と比べるとだいぶ改装していますが、ここで生まれ育ちました。
実は元々、ここは料理屋さんだったんです。六代目がここに移ってきたのは戦時中です。京都が空襲にあうかもしれないということで、火災対策のための道路拡幅で立ち退きに遭い、当時空き家になっていた今のところに移ったそうです。
──なるほど、戦争の影響があったのですね。五条通も戦争の影響で拡張されていまのような大きな道路になったとは聞いていましたが、そのことがあったのですね。
昭和35年頃まではここにあった登り窯を使っていました。昔はこの辺は沢山の登り窯があったそうですが…
でも登り窯は本当に炎が間近で感じられますね。私が勤めている大学(京都造形芸大)には穴窯があってそこで数点焼いたことがあります。当然ですが、電気窯とは違うやきものができますね。
──昔は職人さんが沢山集まっていたこともあって、五条坂の周辺は共同で使う登り窯の煙が沢山立ち上っていたと聞きます。
おかげで煙だらけで…洗濯物も干せなくて、たんすの中まですすが入っていたとか。
その当時は、それが当たり前だったんですよね。今もいろんなやきものに携わっている人たちがここの地域にいるということがすごく大事なことだと思います。
そして、それをアピールすることが大事だと思います。
──この先、五条坂やちゃわん坂の地域の今後は、どのようになってほしいとお考えですか?
京都市内の真ん中って、ずい分変わってきているじゃないですか、町家をレストランにしたりとか、ブティックにしたりとか。
五条坂も、もっと、やきものを見にきてもらえるような町にしたいですね。
そのためには、京焼の美術館とかは必要だと思うんですけどね。河井寛次郎記念館や近藤悠三記念館、清水保孝さんのところのギャラリー、うちのギャラリー六兵衞もあるのですが。
──施設・スポットはあるんですよね。そこにつながりがあればよいのかもしれませんね。
その点ではこの五条通は問題ですね。南側と北側の街が広い道路で分断されてしまってますから。
この地域は繁華街も近いし、飲んでも歩いて帰れる(笑)山も近いし、ちょっと歩けば自然に会えるところもいいですね。ただ、観光シーズンともなると、細い道に観光バスや車がいっぱいになるので、移動が本当に大変です。
電柱をなくすだけでもいいから、道を変えれば、人の意識もずいぶん変わると思いますよ。
──ご当代としては、具体的に何か活動をされたことはおありですか?
工房のギャラリーと、ショップをきれいしたことでしょうか。ギャラリーは昔の蔵を利用しているのですが、三ヶ月に一回くらいのスパンで展示替えをしていく予定です。
あとは、自宅二階の展示品を公開できたらいいなあと思っているんですけどね。
いつ実現できるかわからないけれど、歴代の作品をどこかで展示できる方法を探したいと思っています。それが自宅なのか、工房の方に持ってくるかはわかりませんけれど。
──清水六兵衞歴代、となると、五条坂やちゃわん坂、清水の地域を概観できる場所にもなりそうですね。やはり「最古参」にあたる家、という意味もありますでしょうか
そうですね、昔からこの地でやきものを作っていて、それをずっと続けていくことも意味があることだと思います。