歴代紹介
※画像をクリックすると詳細が表示されます。文章はスクロールすることができます。
-
初代六兵衞
初代六兵衞は、1738(元文3)年に摂津国島上郡五百住村(現、大阪府高槻市)の農家・古藤六左衛門の子に生まれた(幼名・栗太郎)。
寛延年間(1748-51)頃、京都の五条坂にて、海老屋清兵衛(海老屋弥兵衛)について陶業を学んだ。その後、1771(明治8)年頃に独立し、「六兵衞」と改称した。また師の海老屋清兵衛から授けられた「きよ水」の印にちなみ、「清水(きよみず)」姓を名乗るようになる。天竜寺の住職で茶人としても名高かった桂州和尚より六角「清」の大小印を授かり常用し、「愚斎(ぐさい)」の号を贈られた。
初代は主に茶陶制作を行い、轆轤成形の後、鉋目、篦目を効果的に生かす特徴的な表現を得意とした。作域は信楽写、瀬戸釉(鉄釉)、御本、染付(陶胎)などにおよぶ。妙法院宮眞仁法親王の命により、御庭で黒楽茶碗を作り、「六目」の印を授けられた。これによって眞仁法しんのうの文化サロンに加わり、絵師の円山応挙や松村月渓(呉春)、文人の上田秋成、村瀬栲亭と交遊し親睦を深めた。秋成と栲亭から文人趣味の煎茶器の制作を引き受け、晩年、急須、涼炉の制作で高く評された。1799(寛政11)年に死去。初代六兵衞
作品集>
-
二代六兵衞
二代六兵衞は、初代が52歳、1790(寛政2)年の時に生まれた(幼名・正次郎)。初代が亡くなった時には9歳で、すぐに家業を継ぐことは出来ず、1811(文化8)年に家業を再興し、二代六兵衞を襲名した。また今回新たに、初代没後、正次郎が幼少のため家業を継げるようになる頃まで、清水家を支えたと考えられる丸屋庄九郎という人物がいて、正次郎襲名の翌年没しているが、これを清水家では顕彰の意味を込めて、二代六兵衞と称したと推測される資料が見付かった。
二代六兵衞(正次郎)は初代の作風を継承しながらも、奔放で型破りな作風を打ち出した。呉須赤絵写、南蛮写、そして晩年近く磁器焼成に成功の後、古九谷写なども果敢に試みていたことが今回明らかとなった。二代は静斎と号し、印は初代の六角「清」印を二重にしたものを用いた。二代は、1838(天保9)年に隠居し、六一を名乗る。この際、次男に三代六兵衞を継がせ、長男には新たに清水七兵衞を名乗らせている。
二代はその後も積極的に清水家の基盤強化に努め、中でも1843(天保14)年に越後長岡藩主・牧野忠雅の命によって御山焼(御庭焼)に尽力したことが、その後の清水家の販路拡大の大きな布石となった。1860(万延元)年に死去。二代六兵衞
作品集>
-
三代六兵衞
三代六兵衞は、1820(文政3)年に、二代の次男として生まれた(幼名・栗太郎)。1838(天保9)年に18歳で三代を襲名、父に作陶を学び、同時に南画家の小田海僊に絵を学んだ。三代は48歳と若くして隠居した父・六一とともに家業に取り組み、そして1848(嘉永元)年に、五条坂芳野町に登窯を買い取り、これにより清水家は窯元となり、陶家としての歩みをより確かなものとした。その後、1853(同6)年に禁裏御所内に陶製雪見大燈籠を納め、また、彦根藩主・井伊直弼や将軍・徳川慶喜を輩出した一橋家、京都所司代など、諸家の注文を受けた。さらに1865(元治2)年、天皇の行幸などの際に、天皇の鳳輦をかつぐ駕輿丁にも任じられた。
明治時代を迎えると、従来の国内向け制作に軸足をおきながらも、新時代到来にいち早く呼応し、海外輸出向け制作も果敢に行い、清水家の歴史に新たな頁を刻んだ。
文人、画家との交流が深かった三代は、文人趣味によく通じた煎茶器の他、赤絵・染付磁器、土物では御本、織部などを得意とし、「六兵衞様」と呼ばれるスタイルを確立した。印は大徳寺の大綱和尚の筆による六角「清」印などを用いた。
1883(明治16)年、死去。三代六兵衞
作品集>
-
四代六兵衞
四代六兵衞は、三代の長男として1848(嘉永元)年に生まれた(幼名・正次郎)。三代と交友の深かった画家・塩川文麟に師事し、祥麟(祥次山)の号を与えられた。1883(明治16)年、三代死去により、四代六兵衞となる。世界的な不況に陥った最も厳しい時期に家業を継いだ四代は、家の存続を懸けた日々を過ごしながらも、後の五代、栗太郎とともに、浅井忠が主宰する図案研究団体「遊陶園」や、神坂雪佳らの「佳都美会」に参画し、清水家のみならず、京焼の意匠刷新に貢献した。
しかし、四代自身の作風は、大変温雅でむしろ伝統に回帰した茶器などによく発揮された。四代もまた多くの文人、画家と交わり、とくに富岡鐵齋とは深い交遊があり、そこから多くの共作も生まれた。1902(明治35)年頃から大病を患い、一時病床にあったが、家業に復帰した。
1914(大正3)年に隠居、六居と号し、晩年まで作陶を続けた。1920(同9)年、死去。四代六兵衞
作品集>
-
五代六兵衞
五大六兵衞は、四代六兵衞の次男として1875(明治8)年に生まれた(幼名・栗太郎)。祖父、父と親交が深かった日本画家・幸野楳嶺に師事し、その後、父について作陶を学んだ。
明治30年代から、京都市陶磁器試験場の協力を得て西洋の新しい釉技などを積極的に研究し、また同時に浅井忠などとともに中心となって陶磁器図案研究会「遊陶園」活動を始め、図案を改良した陶磁制作を行った。父が1902(明治35)年頃から病床にあった頃は、父の名で代作も行い、1914(大正3)年に五代を襲名。前後して音羽焼、大礼磁などの独自技法を打ち出した。こうした制作の成果を1913(同2)年にはじまる農商務省主催図案及応用作品展覧会に問い、高く評された。同時に琳派風、仁清風の伝統意匠も研究し制作を行った。その後も各美術展覧会を活躍の舞台とし、1927(昭和2)年に帝国美術院展に美術工芸部門(第四部)が新設されると、京都からただ一人審査員として選出された。1937(同12)年、帝国芸術院会員就任。
1945(昭和20)年に長男・正太郎に家督を譲り隠居、六和と号し、亡くなるまで作陶を続けた。1959(同34)年に死去。五代六兵衞
作品集>
-
六代六兵衞
六代六兵衞は五代の長男として1901(明治34)年に京都に生まれた(幼名・正太郎)。京都市立美術工芸学校および京都市立絵画専門学校(現、京都市立芸術大学)で竹内栖鳳、山本春擧など京都画壇の巨匠たちから日本画を学ぶ。その後兵役についたが、復員後の1925(大正14)年から父に師事して製陶全般を学んでいる。活動の初期から日展(帝展、新文展)を中心に目覚ましい活躍をみせるとともに、多くの個展や展覧会に招待出品されるなど昭和の陶芸界を代表する一人となった。また六代は個人の活動に加えて家業の清六匋苑を大きく発展させるなど、清水六兵衞家の存在を広く世間に知らしめた。その作品は、初期の図案風のものから古典に学んだものまで幅広いが、特に三彩、玄窯、銹泑、古稀彩などは六代を代表する装飾技法であり、日本画の素養をもとに確かな技術と経験を通じて重厚な趣をみせたものが多い。
1962(昭和37)年に日本芸術院会員に任命され、京都陶芸界の重鎮として若手の指導育成にも尽力したが、1980(同55)年に東京で開催された歴代展初日の挨拶中に倒れ急死。その突然の死は京都のみならず全国の多くの工芸家ならびに工芸愛好家に惜しまれた。六代六兵衞
作品集>
-
七代六兵衞
七代六兵衞は、塚本竹十郎の三男として1922(大正11)年に名古屋に生まれた(幼名・廣、後に洋、裕詞)。名古屋高等工業学校建築科を繰り上げで卒業後、召集され戦地に赴く。復員後、東京美術学校附属工芸技術講習所ならびに東京芸術大学彫金科で学ぶ。1951(昭和26)年に六代六兵衞の養嗣子となり陶芸の道に進む。1950年代から60年代にかけてクラフト作品を制作する一方で日展に作品を出品し、特選を連続して受賞するなど陶芸家として高い評価を得る。1966(昭和41)年に初めて彫刻作品を発表した後は、1968(昭和43)年に九兵衞を名乗り、アルミニウムを主な素材に用いて彫刻家として活躍した。1980(昭和55)年に六代の急逝を受けて七代を襲名。
七代の陶器作品では、洋(裕詞)時代から一貫して器物の「口」の意味が造形的に探られている。また七代の素材感に対する関心は人一倍強く、京都の黒い屋根瓦が連なった美しさを賞賛する一方で、一時陶器制作から離れたのも陶器の素材感になじめないことが大きな理由であった。2000(平成12)年に代を八代に譲ってからは彫刻制作に専念し、2006(同18)年に惜しまれつつ死去。七代六兵衞
作品集>